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8.技術者の倫理観、責任感と安全   2011.04.24著

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はじめに

 

東日本大震災以後、いろんな人のコメントや情報が欲しいと思い「震災関連で語りあった人」というグループを立ち上げた方の誘いでfacebookを始めた。 まだ友達は2人であるが何かコメントを書かなければと思い先日、自分が過去に書いてきた冊子の中から本表題に関係のありそうなフレーズを羅列して短いコメントを書いた。そのコメントに若干の加筆をして、文章として残したいと思いこの小文を書くことにした。

私が言うまでも無く地震と津波、それに加えて福島原発のトラブルが重なって被害を莫大なものにし、世界にたいする日本の技術評価を極端に低下させ、多大な企業、漁業農業などの産業に打撃を与え、国家財政的にも今後の復興を著しく困難なものにした。地震と津波は天災であるとしても福島原発のトラブルは天災というよりも人災と言っても過言ではないように思われる。それにはいろんな要素があるが、根底には関係者(技術者を含む)の「絶対に事故を起こさない」という倫理、責任感の欠如があることを見逃してはならない。 福島原発の後処理については私の力では何のコメントも出来ず、またその成り行きについても皆目見当がつかない。しかしこのような失敗を繰り返さないため、また何としても日本の技術の評価を世界に復活して日本の将来の活路を開くために、「これからの技術者の教育、育成」の参考になるかも知れないと思い、過去に私が書いてきた冊子の記述などに加筆して小文を纏めてみた。

 

技術者の倫理、責任感

 

福島原発事故の原因として、原子力発電事業の安全を絶対確保するべき責任を担う組織が、産(東電)・官(経産省)・学(一部の原子力研究者)の相互依存的組織となり肥大化硬直化して他人の介入・批判・意見の傾聴を許さぬ排他的(エリート感を持つ?)特殊集団になってしまい、その中で、安全基準などを重大な自責の念を持って真摯に検討することを怠り(「皆の相談で決めたのだから」といった安易な気持に陥り)都合よく決められていたのではなろうか、危惧を感じる学者、技術者、現場運転員、メンテナンス担当者らのトラブル予測や心配を受け入れる余地など、この集団には全く欠けていたのではないかといった意見が多い。私もこれらの意見には同感するものであるが、一方、これらの欠陥を打破出来なかった関係技術者にも責任がないとはいえず、さらには原子力発電にかかわってこなかった技術者も、縁の無い「無責任な人々のやった他責事」としてとらえるのではなく同じ技術者同士として連帯感を持って日本の技術者全員が「自責的に」とらえるくらいの反省感を持ち、「真の技術立国」のためにこの事故の教訓を生かすべきではなかろうかと感じている。我々には、権威にも立ち向かう「声を発する技術者」、「経営者や上司の権威にも屈することなく安全を守り貫く倫理観、責任感を持つ技術者」を育成する義務があると思うのである。

私は1955年に京都大学工学部燃料化学科を卒業したが、卒業の謝恩会で児玉信次郎教授は卒業生への訓示の中で「責任感のない技術者は不適格者である(弊著:研究開発語録2006年発行)」と述べられ、また日常からも「医者は一回の失敗で一人の患者を死なせるが、技術者が事故を起こせば一度に多数の人命を奪うことになる、医学部が6年制であるのに工学部が4年制なのはおかしい」とおっしゃっていた。そして実際に化学系3科の中で燃料化学科だけが「工業数学概論」「機械工学概論」が必須科目であり、当然「化学工学概論」も必須科目であった。後に感じたことであるが、このようなカリキュラムには児玉教授が「卒業生が俺は化学系だからと思って、自分が研究開発した製品の生産プラント建設や操業に際して自分の専門分野に閉じこもって責任感に線引きし、プラント全体に対する無限の責任感を避けないように」という思いがこもっていたのだと思う。

私は全く児玉教授の教えのとうりであり、技術者はその専門分野が何であれ一旦プラントの責任者の立場に立った場合には、いろんな分野の学者や技術者はもちろん、そのプラントの操業にあたる作業員、プラントのメンテナンス業者などの意見を積極的に聴取し尊重して全てを自責とする「無限の責任感」を持って職務の遂行にあたり、絶対に事故を起こさないという倫理、責任感を持つことが最も大切であると思う。「無限の責任感」とは若し不安がある場合には経営者や上司の命令に反対してでも安全に対して、一身に全責任を背負って技術的責任を遂行することであると思う。 残念なことに、私がTVで見た原子炉設計関係者が「設計基準はいろんな分野の専門家が相談して決めたもので、だれが決めたというものではない」と述べられているのを聞いて愕然とした。いろんな分野の専門家が相談するのは絶対に必要なことではあるが、その意見を取捨選択して全てを自責として安全設計を決定する技術者がいなければ責任のなすり合いではないか。また知人は「ラジオで原子炉を設計した人が出演し、嬉々として話しているので驚いた」ともおっしゃっていた。もしそんなことが本当なら、技術者として倫理的に許されることではない。

さらに政府関係者や東京電力関係者がしばしば「想定外」ということを述べているが、一体、誰が想定したことの「想定外」だったのか一切言及していない。これでは責任の所在が一切不明ではないか? これからは技術の専門分野が益々細分化されそれぞれの分野の学問が高度化されてゆくから、技術者が益々自分の分野に閉じこもって自分の責任に限界を作って、他の分野に及ぶ事柄も一切含めて全体を自責として無限の責任を感じる倫理観を持つ技術者が欠乏してしまうという心配がある。技術系の学生や現役の技術者に、技術者の倫理、責任感についての一層の教育が何としても必要であろう。

 

国の作った技術基準は安全を保障しない

 

先日、自動車の車検をうけた。受け取った書類には「この車検証は国の定める 基準に適合することを証明するものであるが、自動車が安全に走行できること を保証するものではない」という趣旨の記載があった。なるほどと思いながら も、車の安全性を保証もして貰えないのに何故これだけのお金を払ったのか「腑 に落ちない思い」を払拭出来なかった。建築基準法、高圧ガス取扱法、危険物 取扱法など膨大な数の技術基準法があるが、これらはクリアーすべき最低の基 準を定めるだけであって、安全を確保するためには何の役にも立たないことを 知るべきである。


安全なプラントを作る為に(1)トラブルの予測

 

プラントを安全に設計し操業する為に私は以前から、「プロ技術者はまず原案を作った段階で「このプラントは必ずトラブルを起こす」と考えるものである。次にどこでトラブルを起こす可能性があるか、トラブルを起こしそうな点を網羅し、徹底的に予測し、ピックアップする。そしてトラブルを起こしそうな点については、個別にモデル実験でトラブルの有無を確かめるとか、それが出来なければトラブルのある部分は二重安全に改良するとか、あらゆる知恵を絞ってトラブルのある点を一つ一つ徹底的につぶしてゆく。その結果としてプラントはトラブルなく作動するものであって、原案が良かったからトラブルなく作動するのではない。一方アマチュア技術者は原案を作った段階で安心し、何の疑いもなくプラントを作ってしまったり、あるいは多少のトラブルの心配があっても、それを事前に徹底して解消することなくプラントを作ってしまう。その結果としてでき上がったプラントは稼働に際していろんなトラブルを起こす。

現実にトラブルが起きてしまってから対処するのはアマチュア技術者であって、トラブルの解消に多大な無駄な時間と無駄な費用を使うだけでなく、トラブルのために生命を失うことさえある。プロ技術者は本当に自分がそのプラントになり切った心境でプラントのトラブルを予知し、それを未然に防止することに誇りと生甲斐を感じる。(「研究の話」1992年発行)」と考えて実行してきた。

また別の言い方をすれば安全設計だけでは必ずトラブルが起こる、安全設計に潜在するトラブルを徹底予見してチェックし、その対策をとるから安全になる(弊著:研究開発語録2006年発行)とも考えていた。 当時、原子力発電所のような大きなプラントを想定していた訳ではないが、考え方としては同じことであると思っている。

トラブルの徹底予測は、いくら優秀な技術者でも自分一人で出来るものではなく、設計、製作、運転、装置メンテナンスなどにかかわる担当者それぞれの立場の意見を皆同じ目線で勘案しなければ出来ないし、皆の意見をそれぞれに尊重し合い、衆知を集めて統括責任者を明確にして判断すれば必ず可能である。

私が責任者として未経験の化学プラントを作った際の例をあげれば、もちろん研究に始まって、文献記載のない点については中間実験を経たことは当然であるが、その過程において先ず未知の部分についてはその分野の専門家の意見を徹底的に聞き回り、類似の装置を徹底的に見学して回った。そのうえでプラントの主要部分となる装置のメーカーを選定し、条件を提示してプラント主要部分の設計を提案してもらい、さらに周辺装置、配管図などをプラントメーカに一括発注して設計図の提出を求めた。

その段階で、自分自身が設計図を検討することは当然ながら社内の設計、製作部門の検閲を受け、さらには、中間実段階で操業に当たった作業員(本プラント操業者でもある)、将来プラントメンテナンスを担当する部門にも設計図を全部チェックして貰いトラブルの起きそうな点を指摘してもらった。その結果として、いろんな部門から改良点が指摘されたが特にプラントの周辺の配管工事をする部門やプラント操業員からの改善要望が微に入り細に入っており、非常に貴重で役立ったことは印象深い。考えて見れば、事故が起こった場合に第一に生命の危険に曝されるのは運転員だから自分の経験を生かして真剣に図面をチェックしてくれたのは当然である。

これらの意見をプラント主要部製作会社、プラント周辺装置製造会社に提示して改善を求めたところ、これらの機械装置専門メーカーからは「一介の化学屋」である私の意見など「そんなことは不可能」と一蹴された。仕方がないから、私自身が改良案を考えて「こんな考えでは駄目か」「こんな考えでは駄目か」と 幾つもの提案をして皆から出された改良点を盛り込むことに徹した。機械装置専門メーカーからは、これも駄目、あれも駄目と意見が一致しないことが続いたが幾つ目かの私の案(全く今までになかった方法)でようやく意見の一致を見ることができた。(その一例は「研究の話」49~50頁参照)このようにしてプラントを作りあげたが、運転員から、「運転しやすい」と言われ、メンテナンスもスムースであった。

原子力発電所は私の作ったプラントのような単純なものではなく、複雑で技術分野も多岐にわたり上記のようなことは容易に出来にくいことはよく理解できるが、だからと言って上記のようなチェックが絶対に必要なことには変わりないし、むしろ最高の水準で行われるべきである。福島原発についてどのようにトラブルの予測チェックがなされていたのか、その実態は私には知るよしもないが、TVで「チリ地震津波の時の津波の高さのトラブルを予測して設計した」という趣旨の発言(確か、東京電力社長の発言)があった。私は地震、津波の専門家ではないから、それを評論できないが、常識的に考えて日本近海で発生する地震(充分予知されていたことである)による津波が最大でチリ地震程度との予測を、最も危険を伴う原子力発電所の建設に際して、そのまま適用するのは地震震源地からの距離を考えただけでも実に甘いトラブル予測と言わざるを得ないのではないか。このようなトラブル予測チェックは本当に地震津波の専門家の意見を真剣かつ積極的に聴取して行われたものであろうか、原発建設の技術統括責任者に真実の実態を聞きたいものである。

安全なプラントを作る為に(2)周辺技術の重要性

 

工業技術というものは必ずといってよい程複合技術である。もちろん中心となる技術があるが、その周辺にたくさんの周辺技術があって初めて、一つの工業技術が出来上がる。多くの技術者は中心技術の検討には極めて熱心であるが、周辺技術の検討を軽く考えることが多い。その結果として周辺技術の欠陥によるトラブルが多く発生する結果となる。最高の技術の結集である原子炉や航空機の事故例を見ても、むしろ周辺技術の欠陥やトラブルによる大きな事故が多い。一台のポンプ、一本のパイプ、一本のボルトが大きな事故に連なる例が多い。

また別の例であるが、蒸気機関が発明され、それが蒸気機関車に利用されようとしたとき、その実用化を最後まで妨げたのは安全弁の開発であったと聞いたことがある。非常に納得のゆく話である。

一つの工業技術を仕上げるためには、中心となる技術の周りにある極めて多くの周辺技術を丹念に一つ一つ仕上げる必要がある。一つでも落ちがあるとトラブルを生じ、全体の失敗を招くことになる。(「研究の話」1992年発行)福島原発の事故も津波の高さの危険予知や冷却系統の安全設計など原子炉自体よりもむしろ周辺技術、危険予知の不徹底が原発全体のトラブルに直結したものと思われる。

一般に一つの工業プラントを建設する場合に、統括責任者としてそのプラントの中心的技術を専門とする技術者が選ばれることが多い。それはそれとして当然な面があるが、問題はその統括責任者が如何に謙虚且つ真剣にあらゆる周辺技術者、建設担当者、メンテナンス担当者、運転員の意見を吸収し、それぞれから出されるトラブル予測を尊重するかである。万が一にも、総括責任者が中核的プラントの安全にのみ熱心であり、周辺技術に関しては適当に分割してそれぞれの専門メーカーに任せきっきりで建設に着手してはならない。

今までに述べたように、統括責任者は自分が得意としない周辺技術にこそ注力してそれぞれの分野の設計者、施工者、運転員、メンテナンス要員の危険予知に対する意見を心底尊重して原案設計の修正、改善を重ねて万全を期してトラブル防止に関する一切の責任を持つべきである。

 

終わりに

 

福島原発の事故が起こってしまってからとやかく言うのもどうかと思うが、この事故で日本の技術者は嫌というほど危険予知、周辺技術の重要性を思い知らされた。この際に、あらゆる分野の学者、教育者、研究者、技術者は「日本は技術大国」などと思っていたことを一切忘れて反省し、謙虚に自分自身の技術に対する倫理観、責任感を考え直して日本再興のために「真の技術大国」に向かって再スタートしなければならない。現役を引退した私が、こんなに偉そうな文章を書くこと自体も思い上がった事かも知れないが、国家債務の危機、少子高齢化、政治の貧困など難題が重なっている現状に東日本大震災が重なってしまった国難に際して、つい筆を取ってしまった次第である。


注:文中アンダーライン部分は過去に書いた弊著の引用である。
2011.4.24.紙尾康作。