1.はじめに
2.福井謙一先生との出会い・・ご縁
3.燃料化学科の設立と変遷
4.私が専攻した頃の燃料化学科の特徴
5.福井研究室の生い立ちと特徴
6.私が燃料化学教室に在籍した当時の福井研究室
(その1.実験グループ)
(その2.理論グループ・フロンティア電子論の誕生)
7.福井先生のエピソード
8.「私の履歴書」の最終文・「科学の任務 地球の遺産守り貫く」 よりの抜粋
9.おわりに
facebookを始めて、日華化学株式会社の研究本部長 松田光彦氏、大学の後輩の上田昌哉氏との交信の中で、「松田氏が福井市で日本初のノーベル化学賞受賞者の福井謙一先生の講演を聞き大変に感銘を受けられた」との記事、「上田氏が福井先生最後の講義をお聞きになった」との記事があり、また松田氏からは講演の時に取られた松田氏自筆のメモのコピーもいただいた。
そのような経緯から、大学専門課程二年間、修士課程二年間を福井謙一先生と京大工学部燃料化学教室という同じ建屋で学んだ自分として福井先生はあまりにも身近な存在であったので、その間の福井先生の印象などを書き残していなかったことに気付き、先生に関する印象のようなものを書くと両氏に約束した。
ところが、私は福井教授が教鞭を取っておいでになった京都大学工学部燃料化学教室に四年間在籍しただけで、福井先生の研究室で学んだ訳ではなく、先生には学部では物理化学演習(内容は熱力学演習)を担当していただき、修士課程では量子化学の講義を聴講し、お情けで単位を頂いただけである。
もちろん、当時は新進気鋭の福井教授の凛とした姿には尊敬の念は持っていたが、友達の間で先生のことを話すときには「福井先生」ではなく「福井さん」と呼ぶほど身近な存在であったので、福井研究室の友達からは先生の研究室の特徴や先生のお話になった言葉を伝え聞いたり、福井研究室の友達の実験室に遊びにも行っていた程度であった。
しかし、その程度では文章にならないので、後追いながら、燃料化学教室第一回卒業生で私の恩師である武上善信教授が投稿された同窓会誌「洛朋第11号」の「特別寄稿」、福井謙一先生自身が投稿しておいでの日本経済新聞の「私の履歴書」(日経ビジネス文庫「私の履歴書 化学の求道者」に纏められて出版されている)(以下、単に「私の履歴書」と記載)、それに加えて福井研究室で学んだ同期生から聞いた話を基に何とか文章を纏めてみたいと思う。
本来は、引用を正確にしながら文章を書くべきであるが、この文章の性格上、引用文献を意訳的に引用し、場合によっては引用文献を省略して書き纏めた部分があることをお許し願いたい。
また本文に正確さを欠く点もあるかと思うが、間違いの点をご指摘、または、お見逃し願って、大筋をお読み取りいただければ幸いである。
私が京都大学を受験したときは、「部」ごとの試験で「科」は2年間の教養課程が終わってから、本人の希望(定員オーバーの場合は成績順でオーバーした人は空いている科が割り当てられる)によって決まることになっていた。
私は受験のときに物理を選択して入学したので、本来なら物理系の科を選ぶはずであった。しかし、旧制高等学校時代に出会った偉大な大先輩である日本カーバイドの中尾新六様に只々心酔していて、新六様の「京都大学に行くのなら、娘婿のところに行けばいいがな」という言葉が心に引っ掛かっており、思案の結果、中尾新六様の娘婿である武上善信教授のおいでになる燃料化学教室を選択することに決めた。その時には燃料化学教室の講座名や担当教授名は書類で知ってはいたものの、燃料化学教室とはどんな特徴のある教室なのか、どのような経歴の教授がおいでになるのか、全く実感がなかったのである。
一方、福井謙一教授(燃料化学教室の授業で初めてお目にかかった)は、「私の履歴書」の中に「大阪高等学校時代に剣道部にいた時、練習で疲れきって勉強もしないですぐ眠ったが数学(旧制高等学校の数学といえば相当のレベルだったはずだが)だけはなんとかなった」と書いておいでになるように天才的な数学の才能をお持ちであった。御尊父が知己であった京都大学工業化学科教授の喜多源逸先生に福井先生の将来を託されたのが機縁で工業化学科に入学され、喜多先生のもとに学ばれ卒業後、児玉信次郎先生のもとで燃料化学科講師、さらには助教授兼東京都府中の陸軍燃料研究所将校を経て、終戦後に燃料化学科の教授に就任されたようである。「私の履歴書」には福井先生自身、喜多先生は福井先生のご尊父の「数学が得意で」というお話を聞いて、「数学が得意なら化学がいい」とおっしゃったというから、喜多先生の「化学に対する将来的予感」がしのばれる。と書いておられる。
後に聞いたことであるが、京都大学工学部の化学系では、「大学の喜多か、実業界の中尾か」と言われたお二人であったという。
喜多先生は東京帝国大学から京都大学に招聘され、工業化学、一学科であった京都大学工学部の化学系学科を「化学機械(後の化学工学)」「繊維化学(後の高分子化学)」「燃料化学」を新たに創設して、いわゆる化学4教室に分化、専門化を成し遂げ、京都大学工学部の化学系学科発展の基礎をおつくりになった。また、喜多源逸先生は中尾新六様のご令嬢と武上教授の媒酌人も務められたというから、中尾新六様とはご親交があったとものと思われる。
一方、中尾新六様は、京都大学工学部卒業後、住友化学の中枢技術者として招聘され、日本で初めて合成アンモニアの工業化を成し遂げられるなど「近代日本化学工業の礎」を築かれた一人である。その協力者には後の燃料化学科教授の児玉信次郎先生もおいでになったようである。中尾新六様は戦後、戦争に協力した財閥会社の重要人物として進駐軍によって住友化学を追われ、ご身分とは釣り合いのとれない小会社、日本カーバイド専務を受託され、その後、徳山曹達顧問、日本プラント協会専務理事なども歴任された。
以上のように、私は燃料化学教室を選んだのは、福井謙一先生の存在を知ってのことではなく、且つ燃料化学教室の特徴を深く考えてのことでもなかった。したがって、福井謙一先生との出会いは殆ど偶然のことであるが、喜多源逸先生と中尾新六様のことにまで遡ると、月とスッポン以下の存在であるが、福井謙一教授と私には京都大学工学部燃料化学教室で出会う多少のご縁があったのかも知れない。
上述のように、私は全く暢気な自然の流れで燃料化学教室を選んだので、その設立の由来とか教授陣の経歴などは何も知らなかった。また緻密性を欠く私はその後も資料などで、それらのことを調査したこともない。
ただ幸いに、同窓会誌「洛朋」を読み返してみたら、第11号(2002年)に燃料化学教室第1回卒業生の武上善信先生の特別寄稿「燃料化学第一回の人々」が掲載されていた。その中に燃料化学教室設立時の記載が少しあるので、それを便りに当時のことを書いてみたい。
それによると、「昭和13年(1938年)秋の新聞に、来春京大に燃料化学科が設置され、喜多教授の合成石油研究がその基盤であることが報じられました。」とあるから、燃料化学科は昭和14年春に設立されたことは間違いない。旧職員の名簿の中に喜多源逸教授の名前があるから、喜多先生は燃料化学科設立に当たってご自身が教授陣に名を連ね、また燃料化学科創設のために住友化学においでになった児玉信次郎氏を懇望して招かれ燃料化学科を主導されたことは間違いない。
更に武上善信教授の特別寄稿には「2回生になったとき(昭和15年)、それまで講師だった児玉先生が教授になられ、物理化学系の熱力学に重点を置いた講義をされた。またその中で自らも勉強する必要を説かれ、Plankの熱力学、Lewis&RandoleのThermodynamicsがいい本であるといわれました。」と書かれていて、この短い文章の中に燃料化学科の教育方針、燃料化学科の特徴がよく示されていると思う。
児玉先生はドイツに留学された経験もあり、ドイツから統計熱力学や当時新し学問であった量子力学などのよい本を沢山お持ち帰りになり、福井謙一先生は児玉教授の指導のもとに、それらの本を独学で勉強され、やがてそのことが福井謙一先生のノーベル賞に寄与したようである。このことは福井謙一先生自身が燃料化学教室同窓会で「類まれなる環境、燃料化学教室」と題して講演された時に、「私は一度も留学したことが無かったが、児玉先生がドイツからお持ち帰りになった統計熱力学や当時新し学問であった量子力学などのよい本を読ませいただき留学したのと変わらない勉強ができた。」とお話しになった。
付記すると同講演によれば、燃料化学教室には有機化学の権威であり炭化水素化学にも精通しておいでの新宮教授がおいでになり、新宮教授が当時化学反応を説明するための理論的主流だった「原子のプラス、マイナス電荷だけで反応を理論づける有機電子説」が炭化水素の反応では役立たないことをお話になったことも福井先生の新しい反応理論「フロンティア電子論」への意欲を刺激したようである。
これらのことを総合して福井謙一先生は、自分は一度も留学したことも無かったのに、児玉教授のおかげで留学したと同じような勉強ができ、また燃料化学教室で炭化水素化学の新宮教授にもお会いできた。このような「類まれなる環境、燃料化学教室」で研究できたことがノーベル賞受賞の一因であるとおっしゃったのである。
上記のように、私は唯々中尾新六様に心酔して燃料化学教室に進んだので、「化学が好きだ」とか「燃料化学教室の研究方針や教授陣に引かれた」とかいう訳ではなかった。したがって、燃料化学教室で専門課程の勉強を始めた当初は同期生に比較して格段に「化学」の力が弱く随分と苦労した。
そのとき救いとなったのは、福井教授の「物理化学演習(内容は熱力学演習)」と武上教授の「有機化学演習」であった。化学四教室の中で「演習」を教授が担当されていたのは燃料化学科だけで、他の科では「演習」は助教授の担当であった。
熱力学を学ぶことで「化学の根底には、こんな面白い学問があったのか」と急に化学が面白くなってきた。福井教授の演習は縦板に水を流すような説明の後に問題が出されて次の週に指名された学生が黒板に解答を書くことになっていた。京都大学受験に物理を選択した私には回答はそんなに苦ではなく生涯の研究でこの演習は大変に役立った。
一方、武上教授の「有機化学演習」の方は高校時代に殆ど有機化学の勉強をしていなかったので苦労した。幸いにも私の下宿と武上教授のお宅が近かった(両方とも法然院の近く)ので自分で書いた回答をお宅に持参して、予めチェックして頂くなど、合法的カンニングで乗り切ったが、学期の後半にはその必要がないほど「有機化学」というものが理解できるようになった。それは武上教授の出題が非常に適切で、講義では身に付かないものを学ばせていただいたからである。逆に「有機化学演習」のお陰で工業化学科古川教授の「有機化学」の講義も理解しやすくなった。
その他には児玉教授の「燃料化学概論」があったが、児玉教授は「こんな各論を勉強しても将来,異分野の仕事につけば何の役にも立たない。授業に出席しなくても単位を上げるから安心して、家で基礎の勉強をしていなさい」と言われたが、不思議と出席率はよかった。児玉教授は基礎学問を重要視されていて、それが燃料化学教室の学風にもなっていた。
新宮教授の「炭化水素化学」では、先生は哲学的とも思える講義をされ、「合目的的」という言葉を連発されていたことのみが印象深い。
多羅間教授の「反応速度論」は福井教授の熱力学演習と相俟って、化学を学ぶ者に必須の基礎学問を教え込むものであった。この二つの講義を受けたことが高分子化学に転向した後も私の思考の基礎になった。やはり、分野が変わっても基礎学問は共通であり、重要である。
その他に、化学四教室では「化学工学」が必須科目であり、燃料化学教室だけがさらに「工業数学」と「機械工学概論(内容は材料力学)」が必須科目であった。多分、児玉教授の「学生が社会に出た時にプラント設計などで困らないように」との思いが籠っていたのだろう。おそらく児玉教授の住友化学での経験からだと思われる。
以上のことを総合すると、燃料化学科という学科の教育方針は(1)演習重視、(2)基礎学問重視、実験重視、中途半端な各論無視(3)化学以外の工業数学、材料力学なども加味、の3点に纏められると思う。これらの思想は、喜多源逸先生、児玉信次郎教授の流れで形成されたものであろう。それに加えて児玉教授は「理論で押せるところは徹底的に理論(紙と鉛筆で)で、理論だけで進めない部分は徹底した観測、観察で」といつもおっしゃっていた。以上のように教育方針の明確な京都大学工学部燃料化学教室で学べたことは本当に幸せであった。
福井先生が書かれた「私の履歴書」によれば、「京大燃料化学教室でお世話になった児玉信次郎教授は、私達を極めて自由な雰囲気のなかで勉強させてくださった。しかも基礎の学問を重要視されたことは、喜多先生以上であった。児玉先生はドイツへ留学されたおりに、ドイツ語の基礎学術書をたくさん買い込んで所蔵されておられた。戦後の本のない時に、私たちはそれをお借りして心の糧とした。
先生の研究は多方面にわたり、そのうえ多くの研究員を抱えて非常にお忙しかった。それでも当時どうやら形の出来かかっていた私を中心とする理論グループの勉強会には、努めて顔を出してくださった。昭和二十三、四年ごろのことである。(中略)
物理学の教室でなら学生時代にやるような勉強ではないか、と言われても仕方なかったし、こうした営みのなかから何かが生まれようとは、当時だれも期待していなかったかもしれない。それでも希望を持って明るく勉強できたのは、われわれの若さのせいだった。
昭和二十六年四月、燃料化学教室の教授に昇進した。当時、児玉先生は、主力をポリエチレンの仕事に注いでおられ、米沢君(後の燃料化学教室教授)は固体触媒の量子論を、永田君(後の国立癌センター部長)は色素の量子論に取り組んでいた。このころから私の心は、だんだんと化学反応の理論へと傾いていった。」と書かれている。この文章から福井研究室の生い立ちの様子を伺い知ることができる。
(その1.実験グループ)
私たちは、専門課程二年目で研究室を選択することになっていた。私は、自分の数学力、物理学力では福井研究室は無理と判断して、まず選択から除外したが三名の同級生(I君、K君、H君)が福井研究室を選択した。
福井研究室には大別して理論グループと合成グループが同居していた。もちろん、理論グループが主流であったが合成グループも重要視されていたのである。
その理由については、福井研究室を選択したI君から「先生は理論をやりたい者は、まず実験をせよ」とおっしゃっていると聞いただけで、その意味を深く詮索することもなかったが、「私の履歴書」を読んで始めてその真意を知ることができた。「私の履歴書」には、「私は研究室にはいってきた学生に、理論をやりたい者は、まず実験をせよ、と言い続けてきた。そんな次第で、いまは錚々たる分子物性論の専門家である山辺時雄教授やフロンティア軌道を図示して化学反応を視覚化するのに成功した藤本博助教授(ともに燃料化学教室が改変して出来た京大石油化学教室)も、まず実験室から研究のスタートを切っている。
なぜそんなことを言ったかというと、自然に直接働きかけるには、実験しかないからである。理論は自然認識の論理的側面を受け持つだけであり、自然の法則性を見つける過程のなかでは、しばしば論理によらない選択を迫られる。その能力を養うには、直接自然に触れることになじむ以外にないと信じている。したがって私の研究室では、ずっと実験部門が絶えたことがない。(中略)
昭和三十年少し前に京大理学部から一人の研究員が、私の実験室に移ってきた。北野尚男博士(現在生産開発科学研究所理事)である。北野君は大変器用な人で、その手にかかると大抵の物質は合成できた。指導の仕方も懇切ていねいで、彼の実験室から多くの錚々たる博士(I君もその一人)が何人も誕生している。」と書かれている。
私が在籍したのは昭和二十八年から四年間であるから、丁度、北野先生(当時は助手)が移ってこられたころになる。しばしばI君のいる北野実験室に遊びにいったが、北野先生は非常に人当たりがよく話好きで、先生の実験を眺め込んでいると、「今・・・・の合成をやっている。・・・」と自分から説明してくださった。何か兄貴分のような存在であった。
ある時、北野先生は小さな小さな枝付きフラスコで分溜をしておられた。不思議なことに分溜に必須なはずの温度計がない。不思議に思って聞いてみると、「こんな少量の分溜では温度計の熱容量が大き過ぎて表示が正確でない。それより、君、この溜分の滴下を観察していなさい。成分が変わった瞬間に受液フラスコの液体中に陽炎が発生する。屈折率が変わった成分が入ってきた証拠だ。陽炎が出た瞬間にフラスコを取り変えると次の成分を新しいフラスコに取ることができる」とおっしゃった。確かに先生の眼は受液フラスコに滴下する液滴に吸い着いている。「なるほどいろんな方法があるものだと」感心したが、今から考えると現在の液体クロマトグラフの検出法そのものである。しかも、目視でそれが出来るとは大変な観察力であった。
(その2.理論グループ・フロンティア電子論の誕生)
再び「私の履歴書」を引用させて頂く。「私の履歴書」には「化学反応とは、結局は化学結合の組み替えである。それでは化学結合は、というと、原子と原子との間に電子がたまってできる。その結合にあずかる電子は、原子が持つたくさんの電子のうち、「原子価電子」という、大きいエネルギーを有して外側を回っている電子であることは、すでにだれもが知っていた。
私は分子と分子の間で起こる化学反応でも、原理はほぼ似たようなものだと考えた(注1)。ナフタレンのように、分子の形が規則的なものは、計算がしやすい。それで、幾つかのこのような炭化水素という分子について、高等学校で習った数学の方法で方程式を解き、概算してみたところ、一番エネルギーの高い軌道にある電子の広がりの大きいところに反応が起こるらしいという見当がついた。いうまでもなく大変うれしかった。
しかし、このような粗い計算では論文にならないので、米沢君に手回しの計算機を使って計算してもらった。一つの分子について二時間ほどかかったようだった。現在のようにコンピューターのない時代だったのである。
われわれが取り上げたモデルが、対象として適当であったかどうかを確認するには、有機化学の側から慎重に判断してもらう必要があった。その作業には新宮春男教授の協力を仰いだが、理論と実験は満足すべき一致をみたのである。
さてこの特別の電子に、何か名前をつけなくてはならない。議論の末、新宮教授の案になる「フロンティア電子」を採用することにした。ナフタレンのような炭化水素分子の外側に電子が広がって、外的試薬が近づいてくると反応する、というほどの意味である。論文は1952年のアメリカ物理学会の化学物理学雑誌に掲載された。この理論がアメリカで広まったのは、「フロンティア」という多分に魅力のある名前のせいもあったようである。」と記載されている。
1952年といえば私が燃料化学教室に籍をおく前年の話である。したがって燃料化学教室に入ってからは当然「フロンティア電子論」という言葉は耳にしたが、この理論の背景などは知らず、「全電子の分布を計算するのでは、とても実用的な分子での計算が無理であり、最もエネルギーレベルの高い最外殻電子の分布で近似するものだ」と勝手に考えており、その裏にある福井謙一先生の思索の過程なんかはとても理解しようとしなかった。また「フロンティア電子論」のその後の発展が絶大なものだとも気付かなかった。
ただ、福井教授がそのように「フロンティアエレクトロン」に限定したとしても、簡単に計算された才能には驚嘆したし米沢助教授が盛んに手回し式の計算機(後には手回しが電動になったので、福井研究室に電動式計算機が入ったと物珍しく見に行ったものである)で一生懸命に計算しておいでになっていた姿を目にしていた。その頃にはアメリカではコンピューターが使われだしていたかも知れないが日本に導入されるには多少の時間を要したように思う。
とにかく、我々は非常に重要な時期に燃料化学教室に在籍でき、「フロンティア電子論」を生み出された全ての先生と出会えたことだけでも幸せであった。
(注1):福井先生は在職最後の講義で、「こんな簡単なことをなぜ誰も気づかなかったんやろ」とおっしゃったというが、それはこの瞬間のことではないかと私は推察する。
先生の第一印象:
私が最初に出会ったころの福井謙一先生は教授に就任されて二年目の新進気鋭の教授であった。顔つき、容姿は凛としていたが決して怖いという印象ではなく、むしろ慈愛を含むようなお姿であった。当時は先生の前ではもちろん「福井先生」と呼んでいたが、同級生同士が話合うときは「福井さん」であった。そのように身近な存在であったのだ。
連れ小便:
品のない話になるが、授業が終わって同級生が何人もトイレに入り連れ小便をしながら、解放感が手伝って「福井さんの問題が・・・」と外に聞こえるくらいの大声で話していたら、急に福井先生が入ってこられ、皆が急に口をつぐんで変な静けさが漂った。先生の悪口を言っていなくてよかったと、皆ほっと胸をなでおろした次第である。変な記憶が残っている。
K君の就職:
同級生にK君という友達がいて非常に頭のいい男であったが、飛びぬけた楽天家であった。奈良県出身で、あるいは福井先生と同郷ということもあって選んだのだろうか研究室は福井研究室を選んだ。就職の際に、先生に学生を推薦して欲しいと懇願して来た会社があり、K君を推薦された。
K君から聞いた話だが 、K君は会社の面接で「筆記試験問題はあまりできていなかったですね」と言われたので、彼は「問題が愚問でしたから」と言って帰って来たそうである。その会社の担当者は困ってしまい、福井先生のもとに「申し訳ありませんが、あの学生(K君)だけは勘弁してください」と平身低頭して断りに来たそうである。
福井先生もお困りになり、今度は極めて親しい会社を選ばれ、面接試験にはK君に同行されたというからK君も大したものである。K君の言によれば、「面接では何か訊かれると、先生が急いでお答えになり、俺は何も喋らせてもらえなかった」とういから空前絶後の笑い話であると同時に福井先生の弟子に対する思いやりの深さが感じられる。
その後一旦は、K君はその会社に入社したが、元来、型にはまった仕事に向かない彼は、退社して大学に戻り博士号を取得してから某女子大の教授となり、副学長も務めた。教職時代には学生用に「有機化学の教科書」も出版したが結構売れたようである。
ある年の同窓会で立食パーティーのとき福井先生、K君などとビールを飲みながら会話をしている中で、先生は「俺の書いた本より彼(K君)の本の方が売れるんだ」と笑いながらお話になった。同級生は皆で「それは当然だ、先生の書かれたような難しい本を理解できる人なんか、そんなにいないから」と酒の肴話をしたものである。
K君からの側聞:
「私の履歴書」には福井先生が幼少のときから「自然」に親しまれ、それが後に学問の発想の助けになった、などと強く「自然」というものを強調されている。また幼少のころの先生は釣りが好きでいろんな魚を釣った話もでてくる。その中で興味深いのは、ウナギを釣る時は真っ直ぐな針を使い、ちょっとした技術が必要であったと書いてある。あまり聞いたことのない話であるが、K君からの側聞では、それに輪を掛けて「福井先生は子供のころ、バッテリーでウナギを感電させて捕っておられたそうだ」ということになっている。いずれが本当かは詮索することでもないが、福井先生の幼少時代が彷彿とする話である。
福井謙一先生と日本カーバイド:
私が就職した日本カーバイドという会社は三菱と住友の合弁からスタートしている。創立当時、技術者は住友から、事務関係者は三菱からこられた方が多く、したがって技術者には京都大学出身者が多かった。福井先生の先輩、同輩、先生の陸軍燃料研究所での部下など皆福井先生の知己の方々であった。
私たちは卒業後、何回か恩師を京都の料亭に招いて同級会を開いたが、その席は和室だから先生方にお酌をして回ることもできた。福井先生の席にお酌に行くと、必ず上記の知己の方々の近況をお聞きになった。いつまでも心配りをいただいていることを有難く思った。
また、先生には何度も日本カーバイドの魚津工場においでいただいた事があるようで、先輩から「福井先生が石灰窒素製造炉の温度分布を解析された論文があった。紛失してどこにいったかわからない。」という話を聞いたことがある。本当に惜しいことをしたものである。
故手島達郎専務の葬儀:
福井謙一先生が陸軍燃料研究所においでのころの部下で、燃料化学教室第二回卒業生の手島達郎氏は私が日本カーバイドに入社したころの「塩化ビニール製造課長」で厳しい指導で有名であった。塩化ビニール研究室の私も時折アドバイスをいただくなど、大変にお世話になった。
手島達郎氏は専務を最後に退社されたが八十歳近くでご逝去された。葬儀には私が会社を代表して参列したが、弔電の読み上げのなかに福井謙一先生からの弔電があった。おそらく、参列者の大部分の方はノーベル賞学者からの弔電とは気付かれなかっただろう。いつまでも部下を思いやるお心使いに感激しながら、自分一人で、他人には理解できない故人の栄誉を称えながら、ご冥福をお祈りして帰ってきた。
福井先生との会話:
私は大学卒業後、会社で全く異なる分野の高分子関係の研究を命じられたので、よく当時高分子化学の第一人者であった京都大学工業化学教室の古川教授に教えを乞いに行った。そのような節には、工業化学と燃料化学は同じ構内にあるので、燃料化学教室の旧師にもご挨拶に伺った。
構内を歩いていると時々、福井謙一先生に出会うこともあったが、御挨拶すると先生は必ず何か声をかけて下さった。例えば「紙尾さんは、会社でも頑張っているようですね」と言われると本当に嬉しかった。
ある時、なぜか突然「紙尾さんは何時間寝ていますか?」と聞かれ、咄嗟に「八時間です」と言ったら先生は驚いたような顔で「それでは子供と同じではないですか。」と言われた時は何とも恥ずかしい思いをした。先生の睡眠時間を聞きそびれたのは残念である。
新幹線の中で:
私は二年間だけ、会社の営業本部長を務めたことがある。関西の客先にご挨拶にいくために新幹線に乗ったら、先生が同じ車両にお座りになっていた。隣の席が空いていたので座って暫く会話をさせていただいた。先生が、どこに行くのかお聞きになったので理由をお話したところ、先生は本当に真剣な顔で「君が営業本部長なんかやって大丈夫なのかね」と心配していただいた。「私一人ではなく、営業全員で頑張ります」とお答えするに止まった。私にも多少の不安があったことを見透かされていたのかも知れない。
先生は「国の教育審議会」(当時、中曽根内閣時代)に出席されてのお帰りの途中とのことであったが、教育について、「日本の教育の底辺のレベルが高いのは非常によいことだ。アメリカなんかは教育格差が大きいから大変だ」とおっしゃっていた。それからしばらくして中曽根総理がアメリカの教育格差に関する失言をして非難を浴びたが、ヒョットしたら福井先生のお考えを不適当な言葉で発言された結果ではなかったか、と憶測している。
博士論文:
私の博士論文の審査員は恩師の武上善信教授と、新宮春男教授、福井謙一教授であった。拙稚な論文をもったいないような(特にフロンティア電子論の発見者の福井謙一教授、命名者の新宮春男教授)先生方にお読み頂いたことを光栄、かつ有難く思って感謝している。
私の場合は、修士課程しか学んでいないので、学位記には京都大学論文博士十五号と書いてあった。論文博士の場合は論文の発表会と審査教授の面接が義務づけられている。面接には新宮春男教授があたられ、「高分子化学はどのように勉強したのか」とお聞きになった。「日本の一流の先生のところを歩き回って、直接お伺して勉強しました」と答えたら「それがよかったのだろう」と指摘していただいた。
それで面接は終わったが、余談のなかで新宮教授は「研究した人の名前は忘れたが、修士論文で有機酸コバルト触媒を使って炭化水素の酸化反応をすると有機酸コバルト触媒が誘導期間中に複核錯体に変化し、これが真の触媒(アクティブステェート)となって酸化反応が急速に進行するという研究があったが、あの研究をやったのは君ではなかったかな?」と聞かれた。正しく私の修士論文であったので「はい」と答えると先生は「今でも触媒の講演をするとき、よく引用させてもらっているよ」とおっしゃった。当時、私の修士論文は指導教授である武上教授からはあまり高い評価は得られなかったが、「高く評価して下さった教授もおいでになったのだ」と感謝の念で一杯であった。全くの余談になったが「フロンティア電子論の誕生」に関係された新宮教授の話だったので付記した次第である。
米澤助教授:
私がドイツのマインツ大学に留学していたところ、日本から「前述の米澤助教授がパリに留学しておられる」との知らせを受けた。
米澤先生は、私が燃料化学教室の学生のころ、福井先生を助けて「フロンティア電子論」構築のための計算に専念されていた方である。大学時代に気軽に米澤先生の研究室を訪ねたこともあったので、日本に米澤助教授の住所を問い合わせ、春休みの休暇を利用してパリに行ってみることにした。もちろん、米澤先生には予め手紙で、お訪ねしてもいいか問い合わせしてご快諾を得て出発した。
初めてのパリで先生の下宿を探すのに少し苦労したが何とかお会いできた。先生は大変歓迎してくださり、いかにもパリの下町といった感じのレストランやバーで食事をご一緒できた。通常の観光では味わえない感じで、さすがにパリの住人だと思った。次の日には近代美術館などにも連れて行っていただき、パリ観光の要点も教えていただいた。同窓というだけで本当に有難いことであった。
また先生とは、お互いの留学当初の「言葉の苦労」など話合い、「米澤先生さえも苦労されたのだから」と変な自信も湧いてきた。
最後に、福井先生自身の投稿、「私の履歴書」の最後の部分の幾つかを引用して私の雑文の締め括りとしたい。
「子供のころから自然にどっぷりとつかって暮らしたことが、私を自然科学の道へと向かわせたことは先にも述べたが、専門として自然科学をやるようになってからは、さらに、自然が畏敬すべき存在であることを私は知った。科学のモデルを設定したり考えたりする場合も、本物の自然に比べて「こんな簡単なはずがあろうか、いや・・・・」と、従前のモデルに対して疑問を持つことも覚えた。自然科学は、それ自身に対するこのような疑問と、自然そのものに対する限りなき畏敬によって進歩すると私は確信している。」
「科学は、地球の保全と人類の持続的な生き残りを目標とすべきであると提唱したわけである。
私は、科学の最大の任務はこの「倫理規範」を達成することであると信じている。それによって人間は、自然物としての人間の生活と、科学化社会における生活とを両立させて生きながらえていくことができる。
倫理規範に沿った科学は、条件づけられた科学であり、従来よりはるかに難しい側面を持ち、倍旧の独創性が要求される。科学的独創には思考の論理性が要求されると同時に、思考対象や思考方法の選択が適切でなければならない。
論理的思考はコンピューターや機械のような補助手段によって助けられるが、思考の対象や方法の選択にあたっては、理性によらない選択が加わり、それにはコンピューターなどの論理的手段はあまり有効ではない。
理性によらない選択の能力(これを科学的直観といってよいであろう)を高めるには、自然科学においては、まず自然に直接接触する
ことが大切なひとつの手段である。自然とともに、そしてサイエンスとともに歩んできた自らの人生を振り返るとき、つくづくそう思うのである。」
大学時代は、偉大なる福井謙一先生のあまりにも身近にいたので、その偉大さも、先生の思考の奥深さにも充分気付くことができず、そしてまた、燃料化学教室というものが普通の環境ではなかったことにも気付かないで過ごしてしまった。今にして思えば本当に惜しいことをしてしまったとの無念さのみが残る。
しかし、幸いなことにfacebook友達の松田光夫氏、上田昌哉氏のコメントがヒントとなってそのことに気付き、両氏に「何か書いてみます」と約束したのが機縁で重い筆を取り進めることができた。
福井謙一先生がご退官後に、「これからは、無から有を生じるような発想が必要な時代がくる」とおっしゃっていたのを思い出す。それを聞いた時はその真意を軽く考えていたが、この原稿を書いているうちにその真意の重さがわかってきた気がする。
先生は「私の履歴書」の最終文に「科学は、地球の保全と人類の持続的な生き残りを目標とすべきであると提唱したわけである。」と書いておられ、「自然物としての人間の生活と、科学化社会における生活とを両立させて生きながらえていくこと」とも書いておいでだ。先生はこのような命題の達成が如何に難しいかを予見されて「これからは、無から有を生じるような発想が必要な時代がくる」とおっしゃったのだろう。
若しかしたら今の科学化社会は「人類の個体の生命を延ばしてはいるが、類の生命を縮めつつあるのではなかろうか?」と思うと、先生から与えられた命題達成の困難さが一層実感される。今後の科学者は「使命の重大さ」を再考して行動していただきたいと念願するものであるが、それに対して、本文中に書いた先生の「私の履歴書」の最終文は大きな示唆を与えるものであろう。
さて、でき上がった文章を読み返してみると、論旨が一貫せず全く私見、偏見に満ちたものであるが、「その拙劣さに意味がある」と自慰して筆を置くことにする。
謝辞:
松田、上田、両氏のコメントがなかったら、一生こんな文章を残す機会がなかったし先生から聞いた話の真意を考え直す機会もなかったと思うと、両氏にお逢いできた機縁は本当に貴重であった。心から両氏に厚くお礼申しあげるものであります。
追記:
ご興味ある方には、直接、日経ビジネス文庫・「私の履歴書 化学の求道者」をお読みいただくことをお勧めする。